お葬式にお参りに行って
昨日、知人の実母のお葬式にお参りに行きました。
互助会系葬儀社の斎場で、お葬式でしたが、そこで感じたことをお話したいと思います。
私と知人との関係は、私が娘の小学校父母教師会会長で、知人の隣の小学校父母教師会会長と関係で、区のPTA連合会で一緒だという関係です。それほど親しくしたわけではありませんが、団体同士のお付き合いの関係で告別式への参列を行いました。
そんなお葬式にお参りした場合、私はいつもどんなご家族だったのかなというのが、一番知りたいことです。そうすれば、遺族の方々の悲しみを少しでも汲取ることが出来るような感じるからです。
今回のお葬式では、残念ながら、それを感じることが出来なかったです。その理由は、ただ一点です。遺族の方が会葬者に語ることをしなかったらです。
告別式の開式前から、葬儀社の施工担当者が、司会進行役として、式の流れや故人のどんな人物だったかというナレーションを行いました。これは、どこの葬儀社での行うことですので、これでは、どんなご家族で故人と遺族がお互いをどんな風に想っているのかが、私には、わかりません。そんな想いを語り、会葬者にも感じることが出来るのが、喪主さんの挨拶や開式前のお互いに挨拶を交わす場だと思うのですが、この葬儀社では、全て遺族の代わりに施工担当者が代役を引き受けているようでした。お寺さんのお勤めの終わり、普通でしたら、喪主さんの挨拶があるのですが、このお葬式ではその挨拶のありません。その代わりに進行役が、会葬者に、「ご会葬いただきありがとうございます。」と挨拶をしていました。そして、生演奏で、音楽家の方が、故人が、生前入院中に、お孫さんが「元気になってほしい」と病院で歌ったという歌を演奏していました。
私は思います。少し演出過剰かなと・・・。 隣にいた会葬者の方が言っていました。「お金がかかっただろうなあ。」と・・・。
この会葬者の私と同じで何も感じるものがなかったのだと思います。
もし、喪主さんが自分の言葉で挨拶をしたり、お孫さんが病院で歌った歌を告別式で、もう一度歌ったりしたら、私たち会葬者は、何かを感じることが出来たのだと思います。 でも何も感じるものがなかったから、私の中に残ったのは、お葬式に参列したことで時間を使ったという倦怠感だけだったのだと思います。
我々日本人は、人に自分の気持ちを表現するのが、下手糞なのだと思います。上手に恰好よく話必要はないと思います。
喪主さんの挨拶にしろ、型どおりの挨拶でも良いと思います。でも、喪主さんが挨拶すれば、そこには、その姿、声色や一所懸命さで、この式や故人への気持ちが会葬者に伝わるものだと思います。お孫さんの歌でも同じこと。お孫さんが一所懸命に歌えば、会葬者の人は、絶対に感動を覚えたのだと思います。 お葬式で上手な演奏を聴いても意味があまり無いように想います。そんなことを避けせない葬儀社の姿勢も良くないと思います。何のために、誰のために、お葬式をするのか。皆で再度考えることが必要なのだと思います。
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