2009/6/23 火曜日

離婚した人のお葬式

Filed under: 葬儀 — admin @ 8:27:02

離婚の多くなってきている世の中です。離婚した人が亡くなった。そんなお葬式についてお話をします。

数年前に離婚した60歳前半の男性が亡くなりました。 この方は、離婚後は、一人暮らしをしていたようです。子供たちも成人しているので、まあまあ悠々自適な生活をしていたようです。

病気になり、入院し、そのまま永眠されたようですが、子供たちにも自分のおかれている状況を伝えていなかったようです。最後の看取ったのは、友人・知人の方々でした。葬儀社の手配も友人・知人が行ったようです。友人・知人は、とりあえず、知り合いの葬儀社に連絡を取り、その後、子供たちに連絡をしたようです。葬儀社も、宗旨や遺族の状況などを把握しないまま、業務を進めようとしていました。子供たちも、父方のお寺がどこなのかがわかりません。また、お墓や何やらのことが分からないので、母方のお寺に依頼をしました。そうすると、このお寺は、○○葬儀社に頼みなさいと言ったそうです。そこから子供たちは、慌てててその葬儀社と連絡を取り、葬儀を行ったそうです。友人・知人が手配をした葬儀社とは一悶着あったので、少し後味の悪い思いをしたようですが、一応無事葬儀を終えたようです。さて、この子供たちは、父親のお骨をどうするのでしょうか。離婚した母方のお墓に一緒に入れるのでしょうか。それとも新しくお墓の立てるのでしょうか。父方のお寺やお墓を探すのでしょうか。葬儀が終わったても、苦労が絶えないなと感じます。

核家族社会は、結婚すれば子供たちは、戸籍を含めて親元から独立していきます。自立した人間を形成を行う意味で必要なことなのだとも思います。しかしながら、我々の日本社会の伝統・文化・風習には、家族の引き継ぐ行為がたくさんあります。先祖の供養・お墓・家族を大切にする想い・・・。そんなことと、核家族制度は、制度と風習・文化がかけ離れているようにも感じます。また、最近は子供たちもなかなか親離れ出来ない実態や高齢な親の介護などの面倒を見ていくにしても核家族制度は、なんとなく、子供も親も自分の都合ばかりを言い立てるための制度になり下がっているように感じます。特に離婚は、親のわがままのように思います。結婚して間のない離婚は、相手方のことをよく知らないという若気の至りという面もあるとは思いますが、長年結婚生活を送った後の離婚は、特に子供が出来てからの離婚は、自分たちの将来を考えた決断が必要なのかもしれません。離婚してしまえば、そのあとの生活においても、子供たちに迷惑をかけることもありますが、自分が死んでからのお寺・お墓などを子供たちがどうすればよいのか悩みを抱えてることになりかねないことだと思います。皆さん、誰しも葬式するのに、子供に迷惑かけたくないとお金をことを気にします。しかしながら、それだけではないのだと思います。家族みんなで考えることが必要なことだと思います。今の生活と、家族の亡くなった後のことを・・・。

2009/6/11 木曜日

自殺とお葬式

Filed under: 閑題 — admin @ 9:02:33

社会的に、自殺者が増加していきます。最近感じることですが、少し自殺に対する世間の認識も変わってきたのかと思います。

以前でしたら、自殺をした場合には、何故自殺したのかなどを詮索されることを嫌い、遺族の人たちも死を伏せようとする意識が働いていたと思います。そのためにお葬式も、誰にも知らせないでひっそりと行うといったことが多かったように思います。

しかしながら、これだけ自殺者が増加し、自殺には、その理由を新聞やニュースで一般的に論じられるようになりました。また、そうならないために周囲の人たちや地域社会がどうあるべきなのかという議論もされるようになってきています。こんな背景の中で、自殺者が出た遺族の人たちに対する周囲の目は、少し変化してきているのかなと感じます。ここ数日の間に2件ほど、自殺者のお葬式があることを知りました。両方ともごく普通にお葬式をしました。 会葬者も故人と別れを惜しみ、遺族と故人を偲び、葬送を行った。そんなお葬式だったようです。確かに、自殺の理由には、世間的に格好の悪い点があると思われる方もまだまだ多いでしょう。故人を惜しみ、別れを行い、そして残された人たちがそのあとを助け合いながら、生きていく。そのための儀式であるというお葬式の意味は、自殺の理由を詮索する周囲の目を気にせずに生きていくためにも必要なことなのかも知れません。

2009/6/8 月曜日

ちょっと気になる葬儀社の姿勢

Filed under: 葬儀 — admin @ 17:29:58

私は、自分の葬儀社とは別に霊柩車の搬送など、他の葬儀社からも部分的に仕事を請け負う仕事をしています。そんなことで、他の葬儀社の仕事ぶりも見ることができます。そんな中で少しに気になる点を書きます。逆にこんな葬儀社にはご注意ください。

ある仕事が入りました。担当者より、連絡が入り、司会者と通夜・葬儀の手伝いをするアシスタントの派遣の連絡でした。この担当者は、「いつもの○○さんは空いていますか。」と聞いてきました。私は、「全部で何人いるの?」と問い返しました。担当者は、「全部で4人です。4人を全部そろえるのは無理でしょう。だから○○さんだけお願いします。」と言いました。他の3人は別の会社にオーダーするのでしょう。別々の会社から派遣されるアシスタントが同じチームを組んで仕事をすることと同じ会社のメンバーでチームをするのとどっちが上手くいくかを考えれば自明の理なのですが、この担当者は、「○○さん」に固執します。何故なのか?みなさんお分かりになりますか。これは自分が仕事をしやすい(手を抜けるから)です。いつも一緒に仕事をしている○○さんには、何も言わなくてもやってくれるという担当者の安心があります。でも、本当に必要なことは、その施工をする顧客のことを考えて、アシスタントさんがチームを組み、顧客の要望ややりたい葬儀を手伝うことです。○○さんだけで、葬儀を手伝っているわけではありません。アシスタントさんが全員で取り組むことが必要なことです。そのためにはチームの意思疎通が図れていることが顧客にとって一番良いことのはずなのですが、そうではなく、担当者の都合が優先されるような施工の組みたてをしているような葬儀社がいます。

皆さんが葬儀を依頼し、打ち合わせを行います。その時に、自分の都合ばかりを言い立てるような葬儀社は、本当によくない葬儀社です。逆に何でもおおせのままにいたしますという葬儀社にも要注意。裏では、こんなやり取りをしています。特に事前準備をしていにくいことが葬儀のことです。家族の人が亡くなってから、いざ葬儀社と話を始めるとなると、自分の思うとおりにならないことのほうが多いはずなのに、何でも出来ますというのも変な話です。でも、こんな葬儀社が多いかもしれない。本当に良い葬儀社は、出来ないことと出来ることをはっきりと言う葬儀社だと思います。

こんな風に考えると自分や家族のしたい通りに出来る葬儀社探しは、亡くなってからでは遅いのだと思います。事前準備それこそ必要なことのはずです。

2009/6/4 木曜日

変死体

Filed under: 仕事 — admin @ 13:14:30

現代社会は、高度に医療が発達し、人は皆病院で診察を受け、薬や治療を受け生き続けようと努力します。しかし、人は何時か寿命がやってきて亡くなります。亡くなる場合も医療で治療や延命を行ってもらっている場合が多いから病院で亡くなるのが当たり前の時代です。

人の寿命は、いつ尽きるかわかりません。突然死が訪れる場合はあります。事故・事件。気づいていないうちに進行していた病、様々です。我々は、そんな遺体を時々見ることがあります。周囲の人や遺族たちも思いも寄らぬ死であるだけに、その死をどのように受け止めるべきなのか、と戸惑い・苦悩している姿を見かけます。お葬式をするにしても、何も心準備もなく、どのように行うべきなのかを考える余裕もない。そんな姿を見かけるたびに私も悲しく忍びがたい気持ちになります。昨日、そのようなご遺体を見ました。死後3カ月を経過した変死体。アパート住まいだったこの男性は、自宅で死亡したまま、発見が遅れ3カ月後に発見さました。死因は別問題として、何故発見が遅れたのか? このアパートの住民は、異変に何故気付かなかったのか。そのことが気になります。我々がこの男性の部屋に行ったとき、周辺までかなりの異臭がする状態でした。隣の住民は、この異臭をどのように感じていたのだろうか。隣の住民が遺体を運び出す際に、何も言わずに出かけて行った後ろ姿を見ました。「無関心」。後ろ姿からのそんなことを言っているように思えました。遺族の人は、数か月の間も連絡がなかったことを悔やんでいる様子ではなかった。家族・兄弟が何をしているのかに関心のない人たちもやはり無関心なのだろうか。人が人に無関心な世の中は、怖いと感じます。死ぬことよりも怖いことだと思います。でも、みんな死を恐れ、怖がり、人の無関心なことを怖いとは感じない。何故なのだろう。昨日は、こんなことを考えさせられました。

2009/6/2 火曜日

こんなお寺は考え物だな

Filed under: 閑題 — admin @ 7:59:18

最近耳にしたお話をします。

父の法事でお寺に兄弟が集まったときのお話です。お経をあげ、10分間の休憩をはさみ、再度お経をあげる段取りだったそうですが、その休憩時間に事件が起こりました。兄弟の一人が父の戒名を書いた掛け軸を見たいと本堂の中に上がったそうなのですが、その時に灯明に肩がぶつかり、油がたいそうこぼれたそうです。そこらじゅうが油だらけとなったそうです。この人が悪いことをしたと住職さんにお詫びに行ったそうなのですが、住職さんが、「たいへんなことをしてくれた。」と大騒ぎになったそうです。休憩時間だったので、兄弟たちは、外にたばこを吸ったり、お茶を飲んだりしていたそうですが、騒ぎを聞きつけ、集まり。これは悪いことをしたなと思って様子を見ていたそうですが、住職さんは、突然「今日はこれで、終わりにします。帰ってください。」と言ったそうです。 兄弟たちは、みな茫然としたそうですが、仕方がないので帰宅したそうです。

お寺におって、本堂や仏具と言ったものは、大事なものなのでしょう。しかしながら、宗教とは一体何なんだろうと考えるとこの住職さんの態度はちょっと考えさせられます。宗教上のその儀式や形は必要なことだと思います。そして、その形の整えるためにモノは必要なことなのでしょう。でも、本当に必要なことは、何でしょう。葬式でも、宗教でも同じだと思う。せっかく、父の法要で兄弟が集まった機会なのに、モノが汚れたから法要を途中でやめる。これって本末転倒しているような気がします。

私にこの話をしてくれた人が言いました。「まあ、お寺も商売道具を汚されたと思ったのだろう。」 これが宗教に関心を持たない普通の人の感覚なんでしょうねえ。仏具などを商売道具と思われては、宗教家もたまったものではありません。しかしこれが普通の人の感覚なら、宗教家の人たちは、相当頑張ってもらわないといけません。

今の世の中、人の絆とか心の在り方などが問われる時代だと思います。宗教家の出番だと思います。もっと頑張ってもらいたいけど、この住職さんのようでは、なかなか上手くいかないかなと感じます。

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