「葬式は、要らない」を読んでみて
葬儀社に喧嘩を売っているようなタイトルの「葬式は、要らない」(島田裕巳著・幻冬舎新書)という本を読みました。葬儀の仕事をしているAさんに「葬式は・・・」を読んだよと言ったら、「あんな本、タイトル聞いただけでムカツク」という返事が返ってきました。しかし、実際に読んでみると、本のタイトルや宣伝のための「葬式大国日本の葬式無用論」などムカツク印象とは別の感想が生まれてきました。インターネットで読んだ人の書き込みを見ると、私と同じように感じている人が沢山いました。「“葬式業者に多額のお金をはらえば、故人にとって良い葬式ができる訳ではない”ことを宗教学的にのべています。葬式のあり方、葬儀業者とのあり方について、親族でよく話し合ってみる必要があるとかんじました」。「人を葬るということを否定しているわけではない。多くの人を参列させ華美な祭壇や高額な戒名といった贅沢な葬式を無意味と断じつつ、故人を偲ぶ葬式は肯定している・・・」。「習俗あるいは慣習としてなんとなく葬式をあげている我々に、葬式や墓、戒名について知っ
てほしい。そして、あり方について考えてほしいといっている」、等など。書き込みの中で色んな人たちが賛否両論、感想や意見を述べているのを読んでいると、葬儀について語ることがタブー視されてきた時代が音を立てて崩れ去っていこうとしている
ように感じました。“おくりびと”が多くの人々に感動を与え、マスメディアでも事あるごとに葬儀の特集番組が見られるようになりました。マスメディアが製作した物の中には内容的に不十分なものが少なくありません。こうした物に「大したことはないね」と言うのは簡単なことです。しかし、こうしたことをきっかけにして生まれてきた多くの人々の葬儀に対する関心を受け止め、答えていくことは、私たち葬儀の仕事に携わる者に課せられた使命ではないでしょうか。少なくとも、この本は多くの人々の葬儀に対する素朴な疑問に答えようとしているから、幅広く読まれているように思います。
この本を読み進めていくと終りの方に“第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方の中に、“本当の葬式とは”という項目があります。著者がこの本の中で本当に言いたかったことだとかんじたので少し長くなりますが引用します。「だが、人生は有限
で、いつか終わりを迎えなければならない。最期をどう生きたかは、葬式に反映され、故人を弔うためにその場に集まった人々に何らかのメッセージを残す。・・・・・どんな葬式でも、会葬者同士が久しぶりに再会する場面がよく起こる。故人の死が、長く離れていた生者の再会をとりもつことになる。それも故人の功徳であり、遺族や参列者はその恩恵を被ることができる。一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと思うに違いない」。このくだりは、著者の葬儀に対する思い入れが伝わってきました。
しかし、島田氏は宗教学者であって、葬儀の現場に立ち会い、多くの遺族の心情に触れながら著作をあらわしたわけではありません。そこには限界があります。さきほどの文章の後に次のような文章が続いています。
「最期まで生き切り、本人にも遺族にも悔いを残さない。私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のもでも関係がない。生き方とその延長線上にある死に方が、自ずと葬式を無用なものにするのである」。「悔いのない生き方」が出来るようになれば、葬式は必要なくなるのであろうか。著者は、宗教と葬儀の関係については研究者として論理的な見解を持ち合わせているのでしょうが、葬儀とは何かについては私たちの周りに居る人々と大して変わらない知識と体験しか持ち合わせていない様におもいます。だから、空想的な葬儀無用論に陥ってしまったのでしよう。私は研究者ではありませんが、命を繋ぐ行為として何らかの形で大切な人を弔ってきたのは、人間だけであり、他の動物と人間が区別される特徴の一つのように思います。葬式自体が「有用なのか無用なのか」、と言うことが問題なのではなく葬儀のあり方、その内容を多くの人々が問題にするように導いていかなければ、大切な人を送る行為としての葬儀は、良くなっていきません。
遺族が葬儀にお金を掛けられないと言えば、金にならない葬儀と陰でグチグチ言いながら、短絡的に直葬の案内だけをする担当者がいます。直葬をうたい文句に葬儀の仕事に参入する者が現れただけではなく、葬儀社自身が直葬に力を入れ始める状況が一部にあります。そうした業者は、遺族が葬儀にお金を掛けられないと相談に来た時に、どのような話をしているのでしょうか。限られた費用は費用として、どれだけ遺族の状況を理解したうえで、心のこもったサポートをしているのでしょうか。以前、ある葬儀社の葬儀担当者が言っていたことが思い出されてなりません。お金が無いので祭壇なしで葬儀をしたいと相談してきた遺族に、彼は「別に祭壇が無くても、心をこめて家族で送ってあげれば良いじゃないの。一生懸命頑張ってお金ができたら、いつの日か法要の時に立派な祭壇作ってあげたら」と言ったそうです。この話を聞いて大変感動しました。この葬儀担当者だけでなく、私たちの周りには色々遺族の為に模索している人がいます。葬儀の仕事を続けていると、ご遺体を物として見ている自分にきずき、沖縄戦で犠牲になった人の遺骨収集に毎年参加し、誰からも弔われることがなかった人の重い死と向かい合う事を通して、自らの仕事を見詰めなおそうとしている人がいます。葬儀の現場から命の大切さや繋がりを伝えていこうと斎場見学会で講演会を計画している若者がいます。今まで葬儀の現場で葬儀の準備をとどこうりなくすることだけが葬儀社の仕事と思っている人から見れば、先程の若い世代の動きは、自分たちの仕事とは関係が無いように見えている事でしょう。しかし、遺族と真剣に向き会おうとする中でたどり着いた彼らのこころみは、今は小さくても必ず大きな流れになっていきます。葬儀をめぐる環境が大きく変わろうとしている中で、今までどおりの体質とシステムを守ろうとする葬儀社や葬儀担当者は遺族から次第に見放されていき、今は小さくても命の根源に触れる葬儀を施行しようとする力が次第の葬儀を担っていき「誰もがあげてみたいと思うに違いない」葬儀を作り上げていきます。「葬儀は、要らない」のではなく、遺族自身による中身の伴った葬儀が営まれていくことでしょう。
トラックバック URL :
コメント (0)