2011/7/17 日曜日

人の死を考える

Filed under: 葬儀 — admin @ 10:59:58

FSN九州が市民フォーラムを開催しました。約400名近くの方々に来場いただき、盛大な開催できました。ご協力いただいたFSN九州関係者や福岡ホスピスの会の関係者の皆様には、感謝申し上げます。

講演は、『よく生き、よく笑い、よき死と出会う』という題名で、死生学を研究している上智大学名誉教授アルフォンス・デーケン先生のお話だった。

葬儀の仕事をしていく上で、たくさんのことを考えさせてもらえる内容であった。

先生は、『死の準備教育』を提唱されており、死には、4つの側面がある。それは、肉体の死・心の死・社会的な死・文化的な死の4つについて説明をされた。

このような側面は、お葬式をどのようにするのかを考えるときにも、必要なことだと思った。 自分が死ねば、遺体の処理だけを考えれば良い。日本であれば、火葬して骨にする。後は、その骨のお墓に入れるのか、破棄するのかを考え、家族に依頼しておけばよい。いや家族に頼まなくても葬儀業者に頼めば事足りるかもしれない。 しかしながら、人の死には、肉体以外の死があると先生はお話をされていた。 それは、人は、死んでもその足跡や他人の心に残るものだということだ。 例えば、家族。 お葬式の現場で遺族を見ていてもそう思う。家族の誰かが亡くなって、泣き崩れる姿・呆然とする姿。 人それぞれの姿ではあるが、遺体となった家族を見て、様々な想いを持っておられることがよくわかる。 その人が生きているときにはあまり、抱いたこともない気持ちが吐露するのではないかと思う。 家族以外の友人・知人も同様だと思う。こんな風に、人の死は、いろんな意味を持つのだろうと感じていた事柄をこの講演を聞いて、再確認できた。このような中で、葬儀の仕事は、遺族の人の想いを大事にせねばならないと思う。 遺族の心の声を聞くことが大事なのだろう。 葬儀社の宣伝文句によくつかわれる「真心」とか「誠心誠意」等は、相手の心の声を聞かねば出来ない事だと思う。 何でも「ハイハイ・仰せのままに」の姿勢では駄目なのだろうと思う。

先生は、こんなこともお話をされていた「生きる時間が限られている以上、時間を意識して死を考える必要がある」と・・・。

お葬式も、死を考えるときに必要なことの一つ。特に肉体的な死以外のことを考えると、じっくりと考えないと、よくわからない事だと思う。やはり、お葬式の準備が必要なことなのだ。そんな想いを強くした。

2011/6/20 月曜日

「アルフォンス・デーケン」市民フォーラム開催について

Filed under: イベント — admin @ 15:13:30

ブログの更新が全く行っていませんでした。みなさん大変ご無沙汰しております。また、ブログの更新を再開いたします。再開にあたりまして、みなさんにイベントのお知らせです。

7月10日と11日に死生学の第一人者、上智大学名誉教授 アルフォンス・デーケン先生をお招きし、グル-フケアについて講演をしていただきます。

2011/1/8 土曜日

葬儀社さんは、聞き上手ですか?

Filed under: 未分類 — admin @ 11:25:35

“言ってくれなかった”とクレームを言われても仕方が無い話

 先日ある葬儀社から、火葬場送りの依頼があった。「“伯父さんが亡くなったので、東部斎場の保冷庫におさめ火葬したい”と言っているので、イフさんの方で全てやって。費用は、だいたい○○万円ぐらいと言っている。ただ、お寺はどうするか決めてないみたいなので確認してあげて」との事だった。私たちは、東部斎場の夜間警備を委託されている警備会社に連絡をとり、遺族が待っている病院へと向かった。病院で今後の相談に時間をかけられそうになかったので、搬送が終わってから今後の打ち合わせをすることにし、東部斎場で待ち合わせた。警備会社が到着してなかったので、火葬場の入口のところで「火葬の時にお寺さんはどうするのですか」と遺族に声をかけた。首をかしげた遺族は、「いま、枕経をあげてもらうためにお寺に連絡したので、こちらに向かっているはず」と言った。真っ暗な火葬場で遺族と話をしているだけでも異様なのに、いま、お寺さんが枕経をあげに来ていると聞いて、思わず「え、嘘でしょ」と言ってしまった。“すみません”とお詫びして、東部斎場には枕経をあげるような場所はないし、警備会社が来て保冷庫に御遺体を納めたら直ぐに出なければならないと説明した。「お寺さんをよんで枕経をあげていただいたり、お身内の方が集まって仮通夜をしたいのであれば、故人が住んでいた所かどなたかの家に連れて帰るか、それが駄目なら安置できる斎場を探しましょうか」、と提案した。喪主の甥の方が他の身内の人たちと相談した結果、このまま東部斎場の保冷庫に納め火葬の時にお寺をよんでお経をあげてもらうという結論になった。お寺に電話をするので今後の事を伝えてくれと頼まれたので、お寺にお詫びをし改めて火葬の時にお経をあげて頂くように依頼した。お寺さんはまだ寺を出てなかったことが、不幸中の幸いだった。お寺が東部斎場に来てたらどうなっていただろう。お寺さんに申し訳ないと思った喪主が「きちんと説明してくれなかったからお寺さんにまで迷惑をかけた」と怒りだしたとしても仕方が無い。

この仕事を依頼してきた葬儀社の担当に連絡し、「この前、直葬頼まれた喪家、東部斎場にお寺よんで枕経をあげてもらおうとしていたよ」と言ったら「うそ~」と驚いていた。どういう状況だったのか知りたくて尋ねたら、「何箇所か葬儀社に連絡し、“伯父さんが亡くなったら東部斎場に直葬して火葬したいのでどれくらい金額が掛るか”とのことだったので、金額の話だけしたら正式の依頼があった」と彼は言った。私は、「電話のやりとりだけではなかなか相手の状況は分からないよね・・・」とお茶を濁したが、色んな疑問が湧いてきた。腐乱状態なら分からなくはないが、甥が入院中の伯父さんの事で相談してきた場合、“連れて帰る場所はないのですか”と何故聞かなかったのだろうか。そうすれば、“なぜ直葬なのか”ということも分かるだろうし、もっと他の可能性が出てきたかもしれない。次の日、喪主の家を訪ねたら、亡くなった人の本家に当たる家だった。そこには比較的広めの仏間もあった。私は、保冷庫に入れなくてもここに安置してあげれば良かったのにと思った。

連絡してきた時に、なぜ「東部斎場に直接連れていったらどうなるのか」を説明しなかったのだろうか。つい先日、病院から会館まで搬送依頼があったが、病院に着いたら奥さんから直接火葬場に連れて行ってと言われた。搬送を担当していたMさんは、「火葬場に直接行く場合は身寄りがいないか、亡くなって日にちがたって御遺体が傷んでいる場合で、普通ほとんどありません。それに、連れて行ったらゆっくりお別れもできませんよ」と奥さんを説得した。奥さんは斎場に行くことを納得した。

こうした遺族のように、どういう葬儀をするのか、どの様なお別れをしたらよいのか、あまり考えずにマスコミなどが取り上げたことを鵜呑みにして表面的な判断をしている場合がある。私たちが表面的な言葉だけにとらわれて対応したのでは、遺族の奥底にある心情には手が届かず、遺族が望むような葬儀は出来ない。私たちの仕事は、遺族が仮に“直葬で”と言った場合でも、そのことが持っている良い面と否定的な面をすべて伝えて遺族自身が正しい判断が出来るように援助すべきである。遺族に表面的に気を使って迎合したのでは、せっかく私たちを頼りにしてくれている遺族に申し訳がない。遺族と向き合わず、いい加減な対応をすれば、必ず担当者や葬儀社への不満やクレームとなって跳ね返ってくる。葬儀が終わって落ち着いたら、「こんなことしてあげたかったのに、言ってくれなかったからできなかった」と嫌ごとを言われるのである。葬儀をするのは遺族であり、そのために色んな判断をしなければならない。その時の状況に合わせて、遺族が判断できるように判断材料を提供するのが私たちの仕事なのだ。

 

“勝手な事をするな”と怒られても仕方が無い話

一年ぐらい前の話だが、「もう一度連絡が入るけど、すぐに出れるように待機しておいて」と葬儀社から依頼があった。しばらくして「もういいから行って」と連絡してきた。病院に着くと霊安室には鍵が掛っていた。病院の事務室に行ったら、遺族がまだ来てないとの事だった。職員の方が遺族に連絡をとってくれ、「もうすぐ着くので・・・」と霊安室を開けてくれた。病院の職員も集まり焼香を済ませて遺族の到着を待っていた。少し待ってから到着した遺族は、私たちに「いい加減にせんか。もう一度電話すると言ったろうが」と怒りをあらわにした。私たちはひたすら「申し訳ありません」と頭を下げ、何とか御遺体を受け取って病院を出た。すぐに葬儀社の担当者に連絡し、一部始終を報告した。すると担当者は、「遅れた訳では無いので、気にせんでいい」と言った。「見当違いなことを言って、あとで大丈夫かな」と私たちは思った。遺族が怒っているのは、病院に着いて母親の身と周りの事や手続きをしてから、再度電話をしようと考えていたのに「無視された」こと、しかも、「寒い中、お世話になっか病院の職員達を並ばせている姿を見て申し訳なく思い」怒り爆発させたのだった。私たちは、心配で斎場に着いてからもう一度担当者に状況を伝えたが、担当者は「わかった、わかった」と言いながら「遅れた訳では無いので大丈夫」と繰り返した。

 

“聞いてません”では済まない話

 1031日に行橋斎場で“いのちの祭り”の講演会があった。私は会社の新人に講演会に来るように声をかけていた。彼は奥さんと子供も連れてくると言っていたのに、当日、行橋斎場に姿を見せなかった。講演が始まったてしばらくして彼に電話したら、“想”苅田に行ったけど私がいなかったので帰ったと言った。私は、「人の話はちゃんと聞かな。チラシ見んやったんか」と言って電話を切った。私は彼に、「人の話をちゃんと聞かんけ良い講演聴きそこなったけど、仕事やったら御免なさいでは許されんのど」と怒った。彼は、「見学会をするのは新しい斎場に違いない」と思い込んだようだ。私は彼に、俺らの仕事は遺族の格好とか雰囲気、表面的な言葉だけで勝手に“思い込み”をし、“判断”をしたら取り返しがつかないことになると、上記した出来事を引き合いに出しながら話をした。

 “言ってくれなかった”というクレームも“勝手な事をするな”と言う御叱りも、遺族から大切なことを何も聞いていないから起こるのである。私たちは、遺族の前では聞き上手でなければならない。聞き上手になろうとすれば、普段の生活の中でもそのことを意識して色んな人と接する事が必要である。一番初めに書いた担当者を弁護するわけではないが、彼は遺族からも評判がよく、人当たりも良い。しかし、施行が何件か重なり会社中がバタバタしている中で、対応が大ざっぱになってしまったのだろう。仕事が忙しかったり、疲れている時に、遺族の気持ちの上に“自分や会社の都合”を置いてしまい、大切なことを聞き洩らしミスを犯すのである。私たち一人一人が気を付けたい事である。遺族のための葬儀施行をお手伝いするために、常に、聞き上手の伝え上手でありたい。

2010/11/10 水曜日

葬儀社との事前の相談は重要です。

Filed under: 葬儀 — admin @ 16:58:58

今月初めにある葬儀社からの依頼で、病院で亡くなった方の遺体を病院で引き取り、そのまま火葬場に連れて行ってもらいたいとの依頼を受けました。その葬儀社からは、自分の会社が当社と依頼者との間に入るとマージンなどが発生するから、依頼者と当社が直接業務を請け負うことになりましたが、事前に葬儀社が打ち合わせをしているので、その通りに業務を行ってくださいとのことでした。私たちは、亡くなったのは、夕方で病院にお迎えに行って、そのまま火葬場に入るにしても火葬場は終業時間ですので、閉まっています。警備会社の方に呼び、保冷室を開けて、そこに、保管してもらうように手配しました。私たちは、こんな業務依頼の場合、思い込みで故人は身寄りがいないのだろうなあ。と思っておりましたが、実際に病院に到着すると、数名の親族の方がいらっしゃいました。「あれ?様子が少し違うな。」という感じを持ったのですが、火葬場に出発する準備をしながら、親族の方に火葬場までついてくるのかを尋ねると、場所は、わかるので後から直ぐに行きますということでしたので、火葬手続きなどのお話は火葬場で行いましよう。と別れて、火葬場に向かいました。

火葬場について、親族の方を待っていると、病院にいた人数よりもより多くの方が来られていました。どうしたのかなと思うと、今からお寺さんの来て、枕教を挙げてもらいますということを話始めました。私たちは、火葬場では遺体を保管するだけではないのですかと尋ねると、いや火葬場にも、簡単なお葬式を出来る部屋があるでしょう。という話をしました。たぶん、関東かどこかの火葬場でお葬式が出来る部屋などを併設している火葬場をイメージされていたようで、北九州市の火葬場はそんな設備を有していないことを説明すると、さあ、どうしようかという話になりました。よくよく聞いてみると、親族の方々は、故人の甥御さんや姪御さんで、故人の子供は、既に他界。お孫さんは、いるのはいるが、現在は、甥御さんたちは、音信不通とのことで、自分たちが故人を看取りことになったが、故人の家は、ごみ屋敷状態で、遺体を安置することが出来ないし、葬儀社に頼んで普通にお葬式をするとなると、孫に連絡しないわけにもいかない。荼毘にふし、その後、事実だけをお孫さんに連絡すればよかろうと思っていたというわけです。火葬場で安置してもらい、ちょっとだけお寺さんに来てもらい、お経をあげてもらい、火葬をすれば自分たちの気持ちをそれで安らぐと思ったようで、そのことでどのくらいの費用がかかるのかを葬儀社に相談したそうですが、葬儀社の方は、火葬場直行(=お葬式をしない)と思いこんだようで、それなら幾らぐらいで出来ますよといった話しかしなかったのだろうことが、その時にわかりました。

このブログでも、よく事前の相談が重要だみたいなことを述べていますが、この方と葬儀社のように、それぞれがイメージが違っている場合が多々あります。消費者のみなさんは、葬儀のイメージと言ってもどんな風に伝えればよいのかわからないと思うのかもしれません。私は、お葬式のイメージとは、自分の故人に対する気持ちだと思います。

「どんなに故人の愛していたのか」とか、「どんなに故人は自分のことを大切に想っていてくれた」とかそんな話が一番重要なのだと思います。なかなか赤の他人の葬儀社の人間に、こんな赤裸々な気持ちを言うのは恥ずかしいと思うかもしれませんが、お葬式で一番重要なものは、気持ちをどう表現するかだと思います。まずは、思いのたけを吐き出すことが必要なのか知れません。

2010/10/11 月曜日

葬儀代金は、わかりやすくないといけないのか?

Filed under: 未分類, 葬儀 — admin @ 11:24:37

昨今の葬儀業界は、「わかりやすいこと」を主題とした事業の体系化やシステム化が進んでいる。具体的には、○○コースと言った価格明示化やインターネットを通じた葬儀業者の紹介・またコンビニエンスストアと同様なフランチャイズ化された葬儀社の出現・大手流通業者の葬儀業界参入による全国どこでも一律サービスの実施などである。

 「わかりやすく」すること自体は、悪いことだとは思わない。しかしながら、現在葬儀業者が行っているような価格の明示化やフランチャイズ化がはたして本当の「わかりやすさ」となっているのは疑問を感じる。何故なら、葬儀とは、百人百通りのやり方があるわけで、それぞれの家の事情や亡くなった時の状況によりやり方やお参りしてもらう方々の違ってくるものです。そしてそのやり方や参列される方々によって葬儀の規模が決定し、かかる費用の決定されるものです。つまり、「○○円で出来ます。」と言った葬儀業者の売り文句より、「これぐらいの規模なら、○○円となりますよ。」と言った話であるはずです。ですから、本来は、遺族の人たちの話を聞き、見積もりをしてみないと具体的な遺族の望む規模に見合う内容や費用は分からないのですから、相談をした・見積もりをした時点で「わかりやすい」ことが望まれているのだと私は思います。しかしながら、昨今は業者同士の競争が激しくなり、営業戦略として顧客の囲い込みやその他の思惑の中で、見積もりする時点よりも早い段階での「わかりやすさ」を競争する時代となっています。これは、業者サイドの経営戦略だけの課題でなく、消費者側のニーズにも実は答えているからです。
 昨今の世の中は、どんな業種であれ、「わかりやすさ」を求められます。ある意味、「わかりやすさ」競い合って、この競争で勝ち残った者が、その業界のリーダ的な存在となっています。この「わかりやすさ」を体系的に行うことが、現在の企業経営の主流的な考えだと思いますし、消費者もそれが当たり前だと感じているのでしょう。先ほど申し上げましたが、本当に必要なことは、「わかりやすい」だけでなく、「望んでいるものをわかりやすく」することだけと思います。何故なら、幾らわかりやすくても、自分が望んでいるものやサービスを購入できなければ、余り意味はないことだからです。ですから、具体的に、顧客の望みが不明である場合の「わかりやすさ」は、ある意味で「目安」ぐらいの話でしかないのだと思います。その「目安」だけの話に、広告や紹介業者などの仲介役が入れば中間マージンがなどの費用が発生し、本来「望むもの」が高くつくシステムは本末転倒のような気がしています。だからと言って広告が全て悪いといっているわけではなく、それは「程度」の問題です。

 話は変わりますが、冒頭に述べた大手流通業者の葬儀業界参入の際に、お布施の目安なるものを公表し、物議を醸しました。これも体系化の問題だと思います。お坊さんの話をお話を聞くと、お布施は、葬儀の際の読経や戒名などの対価ではないので、定価などはないと言い、皆さんのお気持ちです。と話をします。「そう言われても困るよね。意味がわからないよね。」と云った反応が消費者側の反応だと思います。私は、そんな話を聞くと、いつも、お布施がわからないのなら、お寺さんに直接尋ねるのが一番で、私たち業者に聞いても本当の答えはわかりませんと話をします。最近知人のお寺さんとお布施の話をしました。右のような話をした際に、この人は、笑いながら、「わからないことをいろいろと考えて、思い悩むことも大事なことなんだけどねえ。」と云っておられました。この言葉を聞いた後に、お布施の目安の公表などは、人から考え、思い悩むこと時間を失なわさせているだけなのかと思いました。

 葬儀業界が直面している「わかりやすさ」の問題も同様なのかなと思います。葬儀そのものは、それぞれの家が、それぞれにふさわしいモノは何なのかを考えることが必要なのだと思います。ですから、「これで本当に良いのか」と自問自答し、不安ながらも思い悩みながら、葬儀を行うことも、消費者にとって必要なことだと思います。見た目の「わかりやすさ」を強調する業者よりも、一緒になって考えて、適切なアドバイスをしてくれる業者こそ、真の葬儀業者であるように思います。ただ、「目安となるものや体系化」を全面的に否定するものではありません。必要なものは必要ですが、それも適度で良いのだと思います。それよりも、見た目の「わかりやすさ」だけでは、葬儀が終わったのちに、「本当にこれでよかったのか」という不安だけが残るような気がします。

後悔後に立たずと申します。過ぎ去った時間を取り戻すことはできませんので、思い悩む時間を大切にすることが大事だと思います。

2010/9/18 土曜日

お通夜の日取りはどうやって決めるの?

Filed under: 葬儀 — admin @ 14:35:27

人が亡くなったら、葬儀を行う。当たり前のことだと考える。特に葬儀の仕事をしている人間である私は、そう思う。

でも、最近世間ではそうでもないらしい。と感じることがある。

今、テレビをにぎわしている高齢者の行方不明の問題の端緒となった東京都足立区の111歳の人がミイラ化して発見された事件など一連の報道を見ているとそんな風に感じる。

これは特別な事象なのかもしれない。しかし、総じてお葬式をする意味は、昔に比べると希薄になっているように感じることは多々ある。身近なところでは、お葬式の日取りをいつにするべきなのか。こんなことからも感じることがある。日取りを考えるときに、ほとんどの人は、どのように考えるのだろうか。

亡くなった日にすぐやるべきなのか。そうでないのか。 葬儀の依頼を受け、ご遺体を引き取りに行ったときに、遺族の人から良く聞かれることは、「お通夜は、今日出来ますか。」との質問だ。そして我々は、安易に、「この時間なら、今晩のお通夜は可能ですね」とか「明日は、友引だから・・・」と言った答えをしがちである。もう少し親切な答えであると、「ご家族のご都合とかいろいろあるでしょうから、ゆっくり考えてみてはどうですか?」と言ったものだろうか。

遺族の側からすると、葬儀社の式場を借りるのだから、式場の都合を聞かねばならないという意識があるのかもしれないが、お通夜の日取りを決めるにあたって、最優先すべき事項は、お通夜に来てもらうべき親族や友人・知人の都合ではないだろうかと感じることが多くなってきた。決して、葬儀業者やお寺の都合ではないように思う。

 

最近は、家族葬という名の少人数のお葬式が流行っている。先般、テレビで「お葬式の特番」をやっていた。その中で、ある家族が、ご主人で家族だけで自宅にて宗教儀式のない葬儀を行った苦難の道を再現ドラマがあった。親戚の方から形式についての苦情や、通常であれば、葬儀社が行ってくれることを自分たちで行なわねばならない苦労など、様々な場面を遭遇しながら、自宅より出棺する場面でこのドラマは終わった。出棺の際に、近所の方や故人の友人・知人などが、自宅の前に並び、別れを惜しむ場面があった。そして奥様が、そこで、始めて気づいたように、人のつながりの有難さを感じることが出来たということを述べていた。私は、この場面がお葬式の意味を集約しているように思える。

人は、一人では生きていないし、家族だけでも生きていない。でも、そんなことは当たり前すぎて深く考えていないし、大事な時にも忘れてしまいがちなのではないかと思う。

お葬式など、いろんなことを一度にやらねばならないことをたくさんやってくる。悲しい気持ちやいろんな感情を持ちながら、そんなことをやっていると、一番大事な人付き合いなど忘れてしまいがちのように思えてならない。

確かに、現代社会は、人付き合いは以前より希薄になっている。でも、人付き合いはなくならない。義理で来てもらったりしてもらう必要はないと思うが、本当に故人と仲の良い人や家族ぐるみのお付き合いのあるような方々には、お葬式に参列してもらうべきだと思う。そこで、気付く人付き合いの大切さを感じてもらいたいと私は思う。

そのためには、亡くなる前から、家族の中のそれぞれの友人・知人の話をして家族の間で確認しておくことが必要なのだろうと思う。

高齢者行方不明の問題も、こんなことが解決の糸口になるような気がしてならない。

2010/8/15 日曜日

家族のきずなを大切に

Filed under: 閑題 — admin @ 9:46:33

今年のお盆は、高齢者不明の問題が社会問題として言われています。マスコミや行政や100歳以上という区切りをつけて話をしています。一番の問題は、行方不明になっている高齢者の家族は、一体何をやっていたのかが問題なのだと思います。

「数十年前より連絡がない。」「どこにいるのかわからない。」と言っていることが、とても気にかかります。そこには、マスコミには言えないような家族の中の事情があるのでしょう。また、行政もそんな家族内の事情を個人情報として立ち入らないようにしているようです。こうなってくると、本当に何が問題なのかはわからないままになっているように思います。

家族のいう最低限のコミュニティの中で、解決できないような問題は一体何なんだろうと思います。 正直私にはわかりません。 家族の中で抱えている問題は、そんなに難しいことなのだろうかを再度考えてみてはどうでしょうか。実は、本当は些細なことだったりするのではないでしょうか。 問題は、話をしていないことなのだと思います。

家族の大切にする。 自分の産んでくれたお父さんお母さん。社会に出て、なかなか解決できない悩みごとを聞いて励ましてくれる最大の支援者は家族なのだと思います。 そんな家族の縁を切ってしまうことは、人生とてもさびしいことのように思います。

2010/7/31 土曜日

111歳の高齢者が亡くなっていた事件

Filed under: 閑題 — admin @ 9:11:39

1昨日より、新聞・テレビで大きく報道されています。東京都足立区で、東京都の最高齢者の云われていた方が30年前に亡くなっていた事件について感じたことを記します。 このブログは、こんな時事問題を取り上げることは、そぐわないかもしれませんが、ご容赦ください。

この事件、遺体がミイラ化し、染んだのは30年以上前らしい。そして遺族は、長寿のお祝いの金品を公的機関から授受し続けていたことや、数年前に亡くなった妻の遺族年金などの受領したいたことなどが大きく報道されています。

どこで読んだかの記憶は定かでないのですが、以前に読んだ物の中で、「人が死ねば愛用の品が残る。においが染みつき、ふとした折に生前の姿かたちがたちあがってもくる。その重なりが家の歴史を築いていく」と言った言葉を思い出しました。

こんな家の歴史も、死者をみとり、しっかりと葬儀を行い、家族の死をきちんと受け止めることがあってこそなのだと思います。
「生あるものは、何時か亡くなる」と言った言葉や、「家の歴史」と言ったことも、死を受け止め、今を生きることが出来ていないと成立しないのだと思います。

この家の方は、死者を30年以上、放置し続け生きていたことで、今を生きるために必要な金品を受領したのでしょうが、その家の歴史や人間性みたいなものを捨ててしまったような気がします。こんなことでは生きていく意味がないように感じました。

新聞報道を見てみると、数年前に亡くなった奥様という方は、元教員だったということですが、この奥様も生前既に亡くなっていたと思われる旦那さんを放置していたわけで、奥様のこの間どんな状況で暮らしていたのかは不明ですが、仮にお元気であったときに、旦那さんが亡くなっていたのであれば、奥様の感覚を疑います。とくに教員という職業からすると、人にモノを教え、人の道を教える立場の人間が、死を大事にしないとなれば、世も末だと思うのは、私だけでしょうか。

2010/7/14 水曜日

大分県 大野葬祭さんでのリニューアルイベント開催

Filed under: 未分類 — admin @ 16:11:33

先般、わがFSN九州の代理店の有限会社大野葬祭さんで、斎場リニューアルに合わせてイベントを開催しました。その内容をレポートします。

 

九州圏内のご葬儀の状況を見たときに、ご葬儀代金やサービス内容を比較したとき、各社さまざまでありますが、各県単位の状況を見たときに、大分県のサービスがかなり遅れている事があります。それは、「湯かん」です。

FSN九州(フューネラルシステムネットワーク)という、九州50数社、100数斎場の加盟する組織があります。

大分県では、大分市の風の荘、宇佐市の秀平葬祭、日田のこうだ玉川斎場、豊後大野市の大野葬祭、佐伯の柴田装具店が加盟しております。

先日、FSN九州の会議を福岡で行っていた際のことですが、大分県以外の葬儀社の8~9割は「湯かん」を行う環境が整っているのに対し、大分は1社も「湯かん」を執り行える葬儀社が存在しなかったのです。また、「湯かん」の業者が存在しないことがわかりました。

 

「湯かん」とは、湯灌専門スタッフにより、故人様に浴槽につかっていただき、体の隅々まで洗体を行い、続いて洗髪、シャンプーにトリートメント、ドライヤーで乾かした後は、髪をセットし、顔そりをし、お化粧により整えさせていただき、最後にご要望に応じて旅衣装に御着替えをさせていただくというものです。その際もご遺族の方に確認を取りながら、より生前のお姿に近づけるよう努力をさせていただいております。

それもすべては「ご遺体の尊厳の保護」という観点に則った儀式であり、ご遺族の方には「故人が最後にお風呂に入ることができ、また、自分たちの手で最後のお見送りをきちんとしてあげることができた」という感謝の言葉と、ともに大変高い評価を頂いております。

そこで我々、FSN九州、大分ブロックメンバーは大野葬祭を中心に、大分でその湯灌の事業所を開設し、大分の葬儀文化向上のため、取り組みを開始しました。

 

大野葬祭におきまして、最初に取り組みはじめたのが今年の3月くらいですので、まだまだ日が浅いのですが、消費者よりスタッフの期待以上の高評価を得ることができている状況です。

 

また、このたびこの「湯かん」というサービスを広める良いきっかけとして、「大野葬祭みえ」におきましてリニューアルオープンイベントを73日の午前930分より行い、そこでデモンストレーションを行いました。

また、そのほかイベントの内容として、出棺の際に実際に流す葬送曲の生演奏三重奏(ピアノ、チェロ、バイオリン)を聞きながらの食事や、ご葬儀セミナービデオ放映、また、福岡より、葬儀アドバイザー神田紀久男先生をおよびし、講演を行います。「老後を安心して暮らすために」というもので、ご葬儀の事前準備をすることがタブーではなくなってきたこと、ご葬儀で不満を残すことが無いためには事前準備が必要である。という内容でした。また、同社は大分県で一番ありがとうと言われる会社を目指し、「思い出アルバム」として、5分間のビデオ放映や、メモリアル品、写真などを展示し、故人の生前のご功績を広く会葬者にお伝えできるよう努めています。また、葬儀の縮小化を見越し、モダンリビング葬(家族葬ルーム「絆」)をオープンなどの紹介を実施しました。

 

この先、高齢化社会は進み、葬儀も縮小化の傾向にあります。そして、これからは葬儀社はサービス業であるという自覚をさらに強め、葬儀社視点でなく、また、会葬者視点でもなくご遺族視点、さらには故人視点に立った展開をしていかなければならないという考えに基づいて事業を行っているとの大野葬祭の川野社長のお話でした。

 

2010/5/28 金曜日

出会い

Filed under: 日記 — admin @ 7:46:15

想苅田フューネラルホールで行われたいのちのまつりトークライブは、私に深い感銘を与えただけでなく、こんなにも感動的な人と人の出会いもあるのだと衝撃を受けた。いまいのちのまつりと題して全国津々浦々で公演活動をしている絵本作家の草場一壽さんとフリーアナウンサーの副田ひろみさんが初めて出あったのは数年前の命の集い。会場の参加者から「どのような子供に育てたら良いか」との質問に、草場さんは「ありがとうとごめんなさいを言える人に育てば百点満点」と答えた。話を傍で聞いていた副田さんは、交通事故にあい23歳の若さで亡くなった息子が夢に出てきて、ありがとう”“ごめんなさいとだけ告げたことを思い出してその場に泣き崩れた。草場さんの一言で亡くなった息子への思いが一気に湧き上がってきたのである。

命の尊さ、家族の絆の大切さを子供たちやその親たちに伝える活動をしている草場さんと大切な息子を亡くした副田さんの出会いは、すごくドラマチックに思えた。話をしている副田さんを見ていると、自分の亡くなった子供に注ぐ気持ちを受け止めてくれる人に出会えた喜びが伝わってきた。この出会いを契機に、副田さんが草場さんと同じ願を持って活動を始めたのだと感じた。

講演会の後、つれあいと草場さんと副田さんの出あいの話になった。彼女は、「副田さんは草場さんと出会えて救われたんじゃないかな・・」と言った。そして、「葬儀の時にどんな担当者に出あえるかによって遺族の状況はかなり変わってくると思う」と付け加えた。

葬儀担当者の近くにいる女性スタッフは、担当者と遺族の関係を冷静に観察している。私が以前仕事をしていた時、言葉使いや身なりに無頓着だけど、遺族の話を聞いて一緒に泣く担当者がいた。田舎のおじちゃん・おばちゃん風の人からはすごく慕われた。女性スタッフは「今日は担当○○さんで良かったね。もう一緒に泣いていた」と陰で他のスタッフと話していた。知的で都会風の遺族がきたら、「言葉使いや身だしなみがきちんとしている○○さんで良かった」と。そして、うまい具合に担当者と遺族の関係がかみ合っていない時は、いつもより緊張しながら仕事をしていた。施行経験が豊かになっても、得て不得手がなかなか解決できない。私もグループの責任者として施行の仕事をしていた時に、いらいらしながら担当者を見ていたことがある。毎回、遺族にあいそうな担当者を選んで施行させることなど出来ない。

私が以前仕事をしていたのは、互助会系の会社で、社員を大切に育てることなど考えていなかった。社員間の生き残り競争で勝ち残った者だけが、恩恵を受けた。人を育てることが出来ない企業に未来はない。大切な人亡くした遺族のために、葬儀担当者の育成を意識的に図ることが大切なのである。

皆さんも読まれている「葬儀(SoGi)」の創刊3号(1991年)に「葬祭業における教育考える」という特集が組まれていた。この仕事の8~9割は人間的部分が重要として求められるものは技能よりも人間教育ということを色んな方々が力説していた。アメリカの葬儀教育事情の紹介記事では、質の高い精神的サービスで社会へ貢献するのが「葬儀社」であり、そのために葬儀担当者の「人格向上」を葬儀業界組織を上げて取り組んでいることが書かれてあった。今回の想苅田での講演会は、そういう意味ですこぶる面白い試みなのである。葬儀社がそれぞれの地域で社会的に果たす役割をはっきりさせて会社をあげて取り組みを行なう。そうすると自分たちがすすむ方向を少しずつ理解していくのである。

そして、新たな遺族と新しい出あいをしながら葬儀のお手伝いをしている施行担当者が、遺族とどのような出あいをしているのか、本人自身が点検出来るように援助する必要がある。幾つかの葬儀社さんが行っている施行後のアンケートをみると、最後の,ご意見、ご希望のところで担当の○○さんには良くしていただきましてとか親身なお心使いありがとうございましたと書かれていることがある。年間かなりの数のアンケートが返ってくるが、立派な祭壇を作っていただきましてとか、すばらしい棺や骨壺を用意して頂きましてありがとうございましたというようなことが書かれたものは無い。アンケートを見ていると、葬儀は遺族と担当者の出あいがあり、血の通いあった関係が深められることによって行われるものだということが良く分かる。葬儀担当者にしてもこうしたアンケートが返ってくると励みになる。アンケートで感謝の言葉をいただいた場合だけでなく、そうでない場合いでも、葬儀が終われば今度の出あいはどうだったのか考える習慣を付けることが大事だ。そして、新たな出あいが遺族にとって素晴らし物になっていくようにするために、次のような視点から自己啓発をしてはどうだろうか。

1、人の死と向かい合って、自分の人生を見詰めなおしているか。2、人の命が亡くなる事に鈍感になり、気持ちの中にマンネリ化が生まれてないか。3、自分の仕事の評価は、売上だけになっていないか。4、故人の人柄や遺族の人柄に感動しているか。5、仕事を積み重ねていく中で、仕事への使命感や誇りが養われてきたか。こうしたことを会社の上司と社員の間で、施行担当者間で、そして、女性スタッフと担当者の間で討論し合いながら、高め合う関係を作り出すことが、出あいを素晴らしいものにしていくのではないだろうか。

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