2010/7/14 水曜日

大分県 大野葬祭さんでのリニューアルイベント開催

Filed under: 未分類 — admin @ 16:11:33

先般、わがFSN九州の代理店の有限会社大野葬祭さんで、斎場リニューアルに合わせてイベントを開催しました。その内容をレポートします。

 

九州圏内のご葬儀の状況を見たときに、ご葬儀代金やサービス内容を比較したとき、各社さまざまでありますが、各県単位の状況を見たときに、大分県のサービスがかなり遅れている事があります。それは、「湯かん」です。

FSN九州(フューネラルシステムネットワーク)という、九州50数社、100数斎場の加盟する組織があります。

大分県では、大分市の風の荘、宇佐市の秀平葬祭、日田のこうだ玉川斎場、豊後大野市の大野葬祭、佐伯の柴田装具店が加盟しております。

先日、FSN九州の会議を福岡で行っていた際のことですが、大分県以外の葬儀社の8~9割は「湯かん」を行う環境が整っているのに対し、大分は1社も「湯かん」を執り行える葬儀社が存在しなかったのです。また、「湯かん」の業者が存在しないことがわかりました。

 

「湯かん」とは、湯灌専門スタッフにより、故人様に浴槽につかっていただき、体の隅々まで洗体を行い、続いて洗髪、シャンプーにトリートメント、ドライヤーで乾かした後は、髪をセットし、顔そりをし、お化粧により整えさせていただき、最後にご要望に応じて旅衣装に御着替えをさせていただくというものです。その際もご遺族の方に確認を取りながら、より生前のお姿に近づけるよう努力をさせていただいております。

それもすべては「ご遺体の尊厳の保護」という観点に則った儀式であり、ご遺族の方には「故人が最後にお風呂に入ることができ、また、自分たちの手で最後のお見送りをきちんとしてあげることができた」という感謝の言葉と、ともに大変高い評価を頂いております。

そこで我々、FSN九州、大分ブロックメンバーは大野葬祭を中心に、大分でその湯灌の事業所を開設し、大分の葬儀文化向上のため、取り組みを開始しました。

 

大野葬祭におきまして、最初に取り組みはじめたのが今年の3月くらいですので、まだまだ日が浅いのですが、消費者よりスタッフの期待以上の高評価を得ることができている状況です。

 

また、このたびこの「湯かん」というサービスを広める良いきっかけとして、「大野葬祭みえ」におきましてリニューアルオープンイベントを73日の午前930分より行い、そこでデモンストレーションを行いました。

また、そのほかイベントの内容として、出棺の際に実際に流す葬送曲の生演奏三重奏(ピアノ、チェロ、バイオリン)を聞きながらの食事や、ご葬儀セミナービデオ放映、また、福岡より、葬儀アドバイザー神田紀久男先生をおよびし、講演を行います。「老後を安心して暮らすために」というもので、ご葬儀の事前準備をすることがタブーではなくなってきたこと、ご葬儀で不満を残すことが無いためには事前準備が必要である。という内容でした。また、同社は大分県で一番ありがとうと言われる会社を目指し、「思い出アルバム」として、5分間のビデオ放映や、メモリアル品、写真などを展示し、故人の生前のご功績を広く会葬者にお伝えできるよう努めています。また、葬儀の縮小化を見越し、モダンリビング葬(家族葬ルーム「絆」)をオープンなどの紹介を実施しました。

 

この先、高齢化社会は進み、葬儀も縮小化の傾向にあります。そして、これからは葬儀社はサービス業であるという自覚をさらに強め、葬儀社視点でなく、また、会葬者視点でもなくご遺族視点、さらには故人視点に立った展開をしていかなければならないという考えに基づいて事業を行っているとの大野葬祭の川野社長のお話でした。

 

2010/5/28 金曜日

出会い

Filed under: 日記 — admin @ 7:46:15

想苅田フューネラルホールで行われたいのちのまつりトークライブは、私に深い感銘を与えただけでなく、こんなにも感動的な人と人の出会いもあるのだと衝撃を受けた。いまいのちのまつりと題して全国津々浦々で公演活動をしている絵本作家の草場一壽さんとフリーアナウンサーの副田ひろみさんが初めて出あったのは数年前の命の集い。会場の参加者から「どのような子供に育てたら良いか」との質問に、草場さんは「ありがとうとごめんなさいを言える人に育てば百点満点」と答えた。話を傍で聞いていた副田さんは、交通事故にあい23歳の若さで亡くなった息子が夢に出てきて、ありがとう”“ごめんなさいとだけ告げたことを思い出してその場に泣き崩れた。草場さんの一言で亡くなった息子への思いが一気に湧き上がってきたのである。

命の尊さ、家族の絆の大切さを子供たちやその親たちに伝える活動をしている草場さんと大切な息子を亡くした副田さんの出会いは、すごくドラマチックに思えた。話をしている副田さんを見ていると、自分の亡くなった子供に注ぐ気持ちを受け止めてくれる人に出会えた喜びが伝わってきた。この出会いを契機に、副田さんが草場さんと同じ願を持って活動を始めたのだと感じた。

講演会の後、つれあいと草場さんと副田さんの出あいの話になった。彼女は、「副田さんは草場さんと出会えて救われたんじゃないかな・・」と言った。そして、「葬儀の時にどんな担当者に出あえるかによって遺族の状況はかなり変わってくると思う」と付け加えた。

葬儀担当者の近くにいる女性スタッフは、担当者と遺族の関係を冷静に観察している。私が以前仕事をしていた時、言葉使いや身なりに無頓着だけど、遺族の話を聞いて一緒に泣く担当者がいた。田舎のおじちゃん・おばちゃん風の人からはすごく慕われた。女性スタッフは「今日は担当○○さんで良かったね。もう一緒に泣いていた」と陰で他のスタッフと話していた。知的で都会風の遺族がきたら、「言葉使いや身だしなみがきちんとしている○○さんで良かった」と。そして、うまい具合に担当者と遺族の関係がかみ合っていない時は、いつもより緊張しながら仕事をしていた。施行経験が豊かになっても、得て不得手がなかなか解決できない。私もグループの責任者として施行の仕事をしていた時に、いらいらしながら担当者を見ていたことがある。毎回、遺族にあいそうな担当者を選んで施行させることなど出来ない。

私が以前仕事をしていたのは、互助会系の会社で、社員を大切に育てることなど考えていなかった。社員間の生き残り競争で勝ち残った者だけが、恩恵を受けた。人を育てることが出来ない企業に未来はない。大切な人亡くした遺族のために、葬儀担当者の育成を意識的に図ることが大切なのである。

皆さんも読まれている「葬儀(SoGi)」の創刊3号(1991年)に「葬祭業における教育考える」という特集が組まれていた。この仕事の8~9割は人間的部分が重要として求められるものは技能よりも人間教育ということを色んな方々が力説していた。アメリカの葬儀教育事情の紹介記事では、質の高い精神的サービスで社会へ貢献するのが「葬儀社」であり、そのために葬儀担当者の「人格向上」を葬儀業界組織を上げて取り組んでいることが書かれてあった。今回の想苅田での講演会は、そういう意味ですこぶる面白い試みなのである。葬儀社がそれぞれの地域で社会的に果たす役割をはっきりさせて会社をあげて取り組みを行なう。そうすると自分たちがすすむ方向を少しずつ理解していくのである。

そして、新たな遺族と新しい出あいをしながら葬儀のお手伝いをしている施行担当者が、遺族とどのような出あいをしているのか、本人自身が点検出来るように援助する必要がある。幾つかの葬儀社さんが行っている施行後のアンケートをみると、最後の,ご意見、ご希望のところで担当の○○さんには良くしていただきましてとか親身なお心使いありがとうございましたと書かれていることがある。年間かなりの数のアンケートが返ってくるが、立派な祭壇を作っていただきましてとか、すばらしい棺や骨壺を用意して頂きましてありがとうございましたというようなことが書かれたものは無い。アンケートを見ていると、葬儀は遺族と担当者の出あいがあり、血の通いあった関係が深められることによって行われるものだということが良く分かる。葬儀担当者にしてもこうしたアンケートが返ってくると励みになる。アンケートで感謝の言葉をいただいた場合だけでなく、そうでない場合いでも、葬儀が終われば今度の出あいはどうだったのか考える習慣を付けることが大事だ。そして、新たな出あいが遺族にとって素晴らし物になっていくようにするために、次のような視点から自己啓発をしてはどうだろうか。

1、人の死と向かい合って、自分の人生を見詰めなおしているか。2、人の命が亡くなる事に鈍感になり、気持ちの中にマンネリ化が生まれてないか。3、自分の仕事の評価は、売上だけになっていないか。4、故人の人柄や遺族の人柄に感動しているか。5、仕事を積み重ねていく中で、仕事への使命感や誇りが養われてきたか。こうしたことを会社の上司と社員の間で、施行担当者間で、そして、女性スタッフと担当者の間で討論し合いながら、高め合う関係を作り出すことが、出あいを素晴らしいものにしていくのではないだろうか。

2010/3/29 月曜日

「葬式は、要らない」を読んでみて

Filed under: 葬儀 — admin @ 20:26:52

葬儀社に喧嘩を売っているようなタイトルの「葬式は、要らない」(島田裕巳著・幻冬舎新書)という本を読みました。葬儀の仕事をしているAさんに「葬式は・・・」を読んだよと言ったら、「あんな本、タイトル聞いただけでムカツク」という返事が返ってきました。しかし、実際に読んでみると、本のタイトルや宣伝のための「葬式大国日本の葬式無用論」などムカツク印象とは別の感想が生まれてきました。インターネットで読んだ人の書き込みを見ると、私と同じように感じている人が沢山いました。「“葬式業者に多額のお金をはらえば、故人にとって良い葬式ができる訳ではない”ことを宗教学的にのべています。葬式のあり方、葬儀業者とのあり方について、親族でよく話し合ってみる必要があるとかんじました」。「人を葬るということを否定しているわけではない。多くの人を参列させ華美な祭壇や高額な戒名といった贅沢な葬式を無意味と断じつつ、故人を偲ぶ葬式は肯定している・・・」。「習俗あるいは慣習としてなんとなく葬式をあげている我々に、葬式や墓、戒名について知っ
てほしい。そして、あり方について考えてほしいといっている」、等など。書き込みの中で色んな人たちが賛否両論、感想や意見を述べているのを読んでいると、葬儀について語ることがタブー視されてきた時代が音を立てて崩れ去っていこうとしている
ように感じました。“おくりびと”が多くの人々に感動を与え、マスメディアでも事あるごとに葬儀の特集番組が見られるようになりました。マスメディアが製作した物の中には内容的に不十分なものが少なくありません。こうした物に「大したことはないね」と言うのは簡単なことです。しかし、こうしたことをきっかけにして生まれてきた多くの人々の葬儀に対する関心を受け止め、答えていくことは、私たち葬儀の仕事に携わる者に課せられた使命ではないでしょうか。少なくとも、この本は多くの人々の葬儀に対する素朴な疑問に答えようとしているから、幅広く読まれているように思います。

この本を読み進めていくと終りの方に“第10章 葬式の先にある理想的な死のあり方の中に、“本当の葬式とは”という項目があります。著者がこの本の中で本当に言いたかったことだとかんじたので少し長くなりますが引用します。「だが、人生は有限
で、いつか終わりを迎えなければならない。最期をどう生きたかは、葬式に反映され、故人を弔うためにその場に集まった人々に何らかのメッセージを残す。・・・・・どんな葬式でも、会葬者同士が久しぶりに再会する場面がよく起こる。故人の死が、長く離れていた生者の再会をとりもつことになる。それも故人の功徳であり、遺族や参列者はその恩恵を被ることができる。一人の人間が生きたということは、さまざまな人間と関係を結んだということである。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと思うに違いない」。このくだりは、著者の葬儀に対する思い入れが伝わってきました。

しかし、島田氏は宗教学者であって、葬儀の現場に立ち会い、多くの遺族の心情に触れながら著作をあらわしたわけではありません。そこには限界があります。さきほどの文章の後に次のような文章が続いています。

「最期まで生き切り、本人にも遺族にも悔いを残さない。私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のもでも関係がない。生き方とその延長線上にある死に方が、自ずと葬式を無用なものにするのである」。「悔いのない生き方」が出来るようになれば、葬式は必要なくなるのであろうか。著者は、宗教と葬儀の関係については研究者として論理的な見解を持ち合わせているのでしょうが、葬儀とは何かについては私たちの周りに居る人々と大して変わらない知識と体験しか持ち合わせていない様におもいます。だから、空想的な葬儀無用論に陥ってしまったのでしよう。私は研究者ではありませんが、命を繋ぐ行為として何らかの形で大切な人を弔ってきたのは、人間だけであり、他の動物と人間が区別される特徴の一つのように思います。葬式自体が「有用なのか無用なのか」、と言うことが問題なのではなく葬儀のあり方、その内容を多くの人々が問題にするように導いていかなければ、大切な人を送る行為としての葬儀は、良くなっていきません。

遺族が葬儀にお金を掛けられないと言えば、金にならない葬儀と陰でグチグチ言いながら、短絡的に直葬の案内だけをする担当者がいます。直葬をうたい文句に葬儀の仕事に参入する者が現れただけではなく、葬儀社自身が直葬に力を入れ始める状況が一部にあります。そうした業者は、遺族が葬儀にお金を掛けられないと相談に来た時に、どのような話をしているのでしょうか。限られた費用は費用として、どれだけ遺族の状況を理解したうえで、心のこもったサポートをしているのでしょうか。以前、ある葬儀社の葬儀担当者が言っていたことが思い出されてなりません。お金が無いので祭壇なしで葬儀をしたいと相談してきた遺族に、彼は「別に祭壇が無くても、心をこめて家族で送ってあげれば良いじゃないの。一生懸命頑張ってお金ができたら、いつの日か法要の時に立派な祭壇作ってあげたら」と言ったそうです。この話を聞いて大変感動しました。この葬儀担当者だけでなく、私たちの周りには色々遺族の為に模索している人がいます。葬儀の仕事を続けていると、ご遺体を物として見ている自分にきずき、沖縄戦で犠牲になった人の遺骨収集に毎年参加し、誰からも弔われることがなかった人の重い死と向かい合う事を通して、自らの仕事を見詰めなおそうとしている人がいます。葬儀の現場から命の大切さや繋がりを伝えていこうと斎場見学会で講演会を計画している若者がいます。今まで葬儀の現場で葬儀の準備をとどこうりなくすることだけが葬儀社の仕事と思っている人から見れば、先程の若い世代の動きは、自分たちの仕事とは関係が無いように見えている事でしょう。しかし、遺族と真剣に向き会おうとする中でたどり着いた彼らのこころみは、今は小さくても必ず大きな流れになっていきます。葬儀をめぐる環境が大きく変わろうとしている中で、今までどおりの体質とシステムを守ろうとする葬儀社や葬儀担当者は遺族から次第に見放されていき、今は小さくても命の根源に触れる葬儀を施行しようとする力が次第の葬儀を担っていき「誰もがあげてみたいと思うに違いない」葬儀を作り上げていきます。「葬儀は、要らない」のではなく、遺族自身による中身の伴った葬儀が営まれていくことでしょう。

2010/3/20 土曜日

お葬式にお参りに行って

Filed under: 葬儀 — admin @ 9:00:25

昨日、知人の実母のお葬式にお参りに行きました。

互助会系葬儀社の斎場で、お葬式でしたが、そこで感じたことをお話したいと思います。
私と知人との関係は、私が娘の小学校父母教師会会長で、知人の隣の小学校父母教師会会長と関係で、区のPTA連合会で一緒だという関係です。それほど親しくしたわけではありませんが、団体同士のお付き合いの関係で告別式への参列を行いました。

そんなお葬式にお参りした場合、私はいつもどんなご家族だったのかなというのが、一番知りたいことです。そうすれば、遺族の方々の悲しみを少しでも汲取ることが出来るような感じるからです。

今回のお葬式では、残念ながら、それを感じることが出来なかったです。その理由は、ただ一点です。遺族の方が会葬者に語ることをしなかったらです。

告別式の開式前から、葬儀社の施工担当者が、司会進行役として、式の流れや故人のどんな人物だったかというナレーションを行いました。これは、どこの葬儀社での行うことですので、これでは、どんなご家族で故人と遺族がお互いをどんな風に想っているのかが、私には、わかりません。そんな想いを語り、会葬者にも感じることが出来るのが、喪主さんの挨拶や開式前のお互いに挨拶を交わす場だと思うのですが、この葬儀社では、全て遺族の代わりに施工担当者が代役を引き受けているようでした。お寺さんのお勤めの終わり、普通でしたら、喪主さんの挨拶があるのですが、このお葬式ではその挨拶のありません。その代わりに進行役が、会葬者に、「ご会葬いただきありがとうございます。」と挨拶をしていました。そして、生演奏で、音楽家の方が、故人が、生前入院中に、お孫さんが「元気になってほしい」と病院で歌ったという歌を演奏していました。

私は思います。少し演出過剰かなと・・・。 隣にいた会葬者の方が言っていました。「お金がかかっただろうなあ。」と・・・。
この会葬者の私と同じで何も感じるものがなかったのだと思います。
もし、喪主さんが自分の言葉で挨拶をしたり、お孫さんが病院で歌った歌を告別式で、もう一度歌ったりしたら、私たち会葬者は、何かを感じることが出来たのだと思います。 でも何も感じるものがなかったから、私の中に残ったのは、お葬式に参列したことで時間を使ったという倦怠感だけだったのだと思います。

我々日本人は、人に自分の気持ちを表現するのが、下手糞なのだと思います。上手に恰好よく話必要はないと思います。
喪主さんの挨拶にしろ、型どおりの挨拶でも良いと思います。でも、喪主さんが挨拶すれば、そこには、その姿、声色や一所懸命さで、この式や故人への気持ちが会葬者に伝わるものだと思います。お孫さんの歌でも同じこと。お孫さんが一所懸命に歌えば、会葬者の人は、絶対に感動を覚えたのだと思います。 お葬式で上手な演奏を聴いても意味があまり無いように想います。そんなことを避けせない葬儀社の姿勢も良くないと思います。何のために、誰のために、お葬式をするのか。皆で再度考えることが必要なのだと思います。

2010/2/14 日曜日

遺体の取り扱い方

Filed under: 葬儀 — admin @ 13:36:11

本日の日経新聞朝刊に、東京都監察医務院元技術職員の伊藤茂さんという方の記事が出ていました。 この方は、看護師や葬儀業者の間で慣例的に行われている死後の遺体の処置に科学の目を注いでいるという記事が出ていました。商売柄、大変興味を引く記事でしたので、紹介します。

慣例の中で、「指を組んだり、手首を縛ったりすると、水種や皮下出血が生じる場合がある。ご遺体を気づつける可能性があります。」と彼は云います。何故慣例ではなく科学的な処置が必要なのか。伝統的な手法で遺体の状態を損ねることは、逆に遺族の感情を傷つける場合があるからだと云っています。

具体的な例として、新生児。水分含有量が多く、遺体は乾燥しやすい。このため、乾燥を促すドライアイスより蓄冷材を用いるなどの配慮が必要だ。小さなお子様の葬儀などを経験すると我々のよく見かける光景ではあるが、母親はわが子を直前まで抱いたりします。乾燥などによるわずかな体重の減少には敏感であり、その「軽さ」がさらなる悲しみを招くことがあると伊藤さんは云っています。

こんな光景は、気持ちは、我々葬儀業界で心ある人は、十分に理解できるものだと思います。どんなに綺麗に飾った祭壇やどんな良いサービスを遺族の人に行ったとしても、このような小さな配慮が足りないと「良い葬儀」だったとは言われないと思います。 逆に、この小さな配慮は、どんなサービスや綺麗な祭壇にも勝るものだと思います。 小さな配慮のおかげで「良かった」といわれることがあると思います。なぜなら、葬儀の主役は、生きていないけど、やっぱり遺体だからなのだと思います。

私の仕事の中でも、もっと細心な注意が必要なのだと気づかされました。

2010/2/4 木曜日

遺族の心情を斟酌する

Filed under: 葬儀 — admin @ 16:36:11

とうとう1月は、1回のブログを更新することがありませんでした。すいません。このブログの題材になることは日々たくさんあるのですが、なかなか手を出さないのは、如何なものかと反省しきりです。そんな中、先週だったか。NHKの番組「追跡AtoZ」という番組の言語力について報道がありました。最近の社会問題として、「自分の云いたいことを伝えられない」人が増えているという内容でした。これでは、何をしてもダメなので、いろんなところで言語力(文章力だったり、話し方だったり)を高める施策をとっているということでした。これを見ていて、ブログの更新をしない自分の言語力不足なのかなと思ったりしました。

まあ、これからは、もっと更新を増やしたいと思います。言語力がないとは言われないために・・・。

さて、先月わが社の社員が、ある葬儀社の委託を受け、病院に遺体をお迎えに行きました。葬儀社からの依頼は、「●●病院で、故人名は、●●様。もう一度連絡があるから、そうしたら病院に行ってください。」とのことでした。この忙しい世の中で、最近頻繁に見られるようになった家族の臨終を迎えたときに立ち会うことができないケースで、亡くなったけど、遺族の人がまだ病院に到着していない。だから、遺族が病院に到着したら、連絡がありそれから出動するのだろうと思ったそうです。

30分ぐらいして、再度葬儀社から連絡があり、「出動してください。」とのことなので、遺族は病院に到着したのだろうと思い、病院に行きました。病院に着くと、霊安室には誰もいません。これはおかしいと思い、病院に受付に着くと「遺族の人は、まだ到着していない」とのことでした。出動した人間は、「あれっ?」と思ったそうですが、仕方がないので待つことにしました。そうすると、病院の人たちも「葬儀社の人たちが到着したから、そろそろ出発だろう。」と思い、霊安室の方に集まり始めました。

そんな中に、遺族の人が病院に到着しました。そうすると、いきなりわが社の社員に怒り始めました。「もう一回連絡すると伝えただろう。なんで勝手に着ているのか」ということです。理由は、「故人がお世話になった病院で、寒い中見送りをしてもらうのに、自分たちが遅れている。待たせるのには忍びない。だから、自分たちが到着してから、葬儀社には来てもらいたい」ということです。

こちらは、葬儀社から2回目の連絡をもらってから出動しているので、訳がわからない状況で、まずはお詫びをして、葬儀社に連絡を取り、遺族の状況を伝えました。「相当怒っているよ。何でこうなったの?」と尋ねると、「いいんじゃない。別に早く行って待ってるわけだから、僕らの仕事じゃ当たり前でしょう。」という答えが返ってきました。

 確かに、普通は病院である程度出発までに時間を待つのが当たり前なのですが、相手の事情が聞いていながら、いつも通りのやり方を行おうしたことに、遺族が怒っていることを感じることが出来ない様子だったそうです。その後、結末は、どうなったかを知りませんが、きっと遺族は、心にシコリの残るお葬式になってしまったのではないでしょうか。そのようなお葬式を一場面ですが、我々の係ったことに反省をせねばなりません。

以前にこのブログに書いたと思いますが、病院へお迎えに行くことの重要性をもう少し葬儀社全体で考えなくてはいけません。

普通どおりにやれば良いでは、いけないのだと思います。人間一人一人考え方感じ方も違うのだから・・・。

2009/12/26 土曜日

「お葬式」を話題としてお酒を飲む

Filed under: 閑題 — admin @ 11:36:36

気がつくと、2か月近くこのブログの更新を行っていませんでした。大変申し訳ありません。

11-12月度、年末が近づくにつれ何かと気忙しくなり、ついついブログに手がつかない状況と陥っていました。

さて、年末は忘年会やら何やらでお酒を飲む機会が多くなります。ついつい飲みすぎて翌日はツラい日が多くなります。また、余りお酒を飲んだつもりではないのに、翌朝、ツラくて起きられない。やっぱり年をとってきたのかなあと感じます。

そう言いながら、この季節、旧友と1年1回の忘年会は楽しみです。 仕事がらみの忘年会は、すっぽかしてもこれだけは外せません。 昔話や今の仕事の愚痴や夢。 家族のことなどいろんな話で盛り上がる。 仕事のシガラミのない忌憚のない意見交換は、本当に自分のためになると思います。

そんな中で、年をとるにつれ、誰かの親の亡くなったとかいう話が毎年少しづつ増えてきているように思います。 私たちの仲間うちでも、健康不安を感じているような人もいるようで、そろそろ葬式のことも考えようかなあとか冗談半分に言うやつもいました。

そんな話を聞きながら、少し違和感を感じるのは、健康のことも、葬式のことも、お金が心配だからということを言っている仲間がいることです。確かに、病気になれば、病院代がかかる。お葬式をすれば、葬式代がかかる。間違いのないことなのです。でも、それだけで健康や葬式のことを考えてよいのかと思います。 こうやって毎年年末に仲間が集まりどんちゃん騒ぎをする(結構お金はかかります。中には、わざわざ、遠方から泊まりがけで来る連中もいる)のは、何故なのか。やっぱり楽しいと思えるものがあるからだと思います。お金のことだけ考えたら、毎年は出来まないのではないでしょうか。

健康のことも、何のために健康で長生きするのかといった「生きがい」や、お葬式のことなら、何のためにお葬式をするのかを考えいかないとだめなのだと思います。 来年ぐらいは、お互いの人生を語り合えるような会になっていければ、なお一層自分の為になる会になるような気がします。

2009/11/7 土曜日

お寺さんもお葬式をことがわからない!

Filed under: 葬儀 — admin @ 11:54:22

今年の9月に福岡市 浄土真宗本願寺派 那珂組のお寺様の勉強会に、我々FSN九州株式会社の仲間である 福岡草苑 木下株式会社 副社長 木下右二氏が、葬儀についてお話をされました。

現在の葬儀事情や遺族の方が言われているお寺さんに対してのことなどを話をしました。

現在の葬儀は、人が長生きをするようになったことにより、葬儀参列者の減少が顕著になっていることや、通夜と葬儀が同じ内容になってきていること。また、斎場で葬儀を行うことが当たり前になり、寺院と檀家の関係の希薄化により、寺院あっせん業者の出現などが挙げられます。

また、我々葬儀社が、遺族より聞く話や、葬儀社から見たお寺さんの課題などについてもお話をしました。

少し、箇条書きにしますと、

①お布施の意味が理解できない。

②いつも同じ話の法話を行っている。(法話が長い)

③弔辞用語で、「ご冥福天国」と云う言葉を使わない等の説明を突然受けたため、弔辞申し出者が急きょ、弔辞を取りやめた。遺族としては、弔辞申し出者に申し訳ない気持ちになった。

④遺族が、お寺に葬儀の依頼の電話をしたら、電話口でお布施の話をされた。(葬儀社にお布施の話を遺族にさせるお寺さんもいる)

⑤時間に遅れてきて、平然としているお寺さんがある。

⑥遺族の人が、お寺に電話をしたがらない。葬儀社に代行させて葬儀の依頼をする。遺族は、お寺と何を話をすればよいかがわからない。

 このような話をしました。この勉強会に参加されたお寺さんは、熱心に話を聞いてもらったようです。まあ、他にもいろいろとあるのでしょうが、総じて云うと、お寺さんと檀家さんの関係が希薄化しているから、両者とも相手の立場や状況がわからないままに、葬儀という場面に遭遇していると言えるのだと感じます。お寺さんはお寺さんで、当たり前と思っていることが、遺族の人たちには、わからないということが理解できない。逆もしかりなのだと思います。

今の現代社会が、生活や家族のあり方が大きく変化しつつある時代だと思います。そのために、我々一人一人がどうあるべきなのかを考えていかねばならない時代です。その中において、信仰心という心の拠所が必要になってくるのではないかと思っています。そのために葬儀社も宗教者と一緒になってある世の中のために何かをせねばならないと思います。

今のままでいけば、どんどん宗教色のない葬儀が増え、宗教の意味や葬儀の意味は形骸化し、形だけのお葬式が増えていきます。葬儀社のそれでも良いかもしれません。形を販売することは出来るから・・・。でも、お金を使うことに意味を持たない消費は、長続きしませんし、消費をしたくないと思うのが消費者心理です。ですから、葬儀社は、宗教者と一緒に行動する必要があるのだと思います。そう言った意味で、葬儀社の遺族とのかかわりをもっと深めねばなりませんし、宗教者も同様なのだと思います。

このように、一緒になって、お寺さんと葬儀社と勉強会をすることは非常に良いことだと思いました。

2009/10/18 日曜日

宗旨は何ですか?

Filed under: 葬儀 — admin @ 14:26:05

我々の仲間の葬儀社3社にて、現在、葬儀後に遺族の人にアンケートを行っております。我々として改めるべきことや、遺族の人がどんなことに気を使っているのかなどを把握するためです。「葬儀のアンケートなんて、不謹慎な」という葬儀社仲間の意見もあり、現在この取り組みを行っているのは3社だけです。

当初、アンケートの回答なんて、するわけないという大方の予想を覆し、葬儀施工件数に対して6割ぐらいは回答を頂戴しているような状況です。遺族の人たちも、我々葬儀社に対してやはり言いたいことがたくさんあるのかなと感じています。

さて、最近戻ってきたアンケートの中で、宗旨についてのことがありましたので、本日はそのお話をしたいと思います。

アンケートを書かれた方は、たぶん故人の三女さん。喪主は、故人の奥様(アンケートを書かれた方の母親)でした。

アンケートには、母親と子供達の希望が異なり、何もわからないままに学会葬を行った。不安で仕方がなかったのが、葬儀社担当者の親切な対応で、小さいながらも心のこもった葬儀が出来たと書かれておりました。

喪主となった母親の創価学会員だったのでしょうか。そのことを子供達は、知っていても、宗教団体である創価学会を良く知らないので、不安だったのではないでしょうか。また、一族がすべて学会員なのであれば、それほど、問題はないでしょうが、学会葬として、葬儀をすれば、お墓のことやら仏壇のことやらいろいろとあり、子供達も心ならずとも創価学会員にならねばならないと感じたのでしょうか。いろいろと将来のことを含めて、不安に思うことがたくさんあったのだと思います。そして、お葬式だけは何とか執り行うことが出来たという安堵が、このようなアンケートの回答となったような気がします。その後の不安はをどのように対応しているのかを少し聞きたい気持ちもあります。

このアンケートを見た翌日、私の家内の実家から電話がありました。義母から、私に相談があるとのことでした。それは、祖母のことでした。現在、祖母は、心臓の病気と痴ほう症のため、老人施設に入っております。その施設に家族でない人が、祖母を訪ねてきたそうです。施設から、その後家族に連絡があり、その人を知っているかと尋ねられたそうですが、家族には心当たりがなく、不審に思った義母が、祖母の持ち物をいろいろと調べていると、祖母がまだ元気だったころに入会していた統一教会の人らしいことがわかりました。祖母が現在の施設に入る前までは、義母のお兄さんが祖母の面倒を見ていたときに、祖母が統一教会に入っていることが分かり、いろいろとお金を教会に使っているのを見てお兄さんがやめさせて、お兄さんが入会している創価学会員になった経緯を聞きました。縁が切れたいたと思っていた宗教団体の人が突然訪ねてくることが、怖いと感じた義母から、相談を受けました。悪い想像をたくさんしていました。

祖母が死んだら、その宗教団体に遺産を寄付するような契約があるのではないか。だから、そろそろかなと思って祖母の様子を見に来たのではないかといろいろです。まあ、祖母はまだ生きている訳だからいろいろと手を打つことは出来るはずだから、実態がどうなっているのかを良く調べることが大切ですよ。土地や建物の登記や祖母名義の預貯金などを良く調査してください。何か変なことがあれば、現時点での被害はないわけですし、仮に祖母が遺言書などを作成しているのであれば、その痕跡があるのかないのか。また、遺言書の効力云々については、弁護士さんなりとよくよく相談されるべきです。まだ手を打つことは出来るから、不安になる前に義母の兄弟姉妹とよく相談されてから行動してくださいとアドバイスを行いました。

よく考えると、それにしても祖母は、人が良すぎるなあと感じます。たぶんに誰かに誘われ統一教会に入会、子供に言われ退会。そして別の宗教団体に入会。果たしてどの宗教で葬儀をするのでしょうか。身内のことだけに心配です。少し中に入って整理してあげないといけないし、葬儀を行う段階になって、あれこれ内輪でもめるのは大変だと思います。

世の中、いろんな宗教団体がありますが、皆さんがたの家族の中でそう言った団体に入会している人がいるのではないでしょうか。生きている間は、それほど問題ないでしょうか。宗教とお墓や仏壇と言ったものがつながっているので、その人だけの問題なく、死後もどうしていくのかを問題なのかもしれません。一度家族で宗教について考える必要があるかもしれません。

2009/10/15 木曜日

葬式代がないのですが・・・。

Filed under: 葬儀 — admin @ 17:09:33

昨今、日本社会は、「格差社会」だの「就職難」だのと貧困にあえぐ人々が増えております。そんな中での、生活保護を受給している世帯も増えています。このような世帯の場合に、お葬式を行うのも大変です。自治体では、このような場合のために、福祉事業として、葬式代も出してもらえます。とはいっても、霊柩車の搬送代と棺の費用ぐらいしか出ないような状況で、普通のお葬式を行うことは困難です。生活保護を受けている方でも、そのような形の葬儀ではいけないといったことで、御親戚の方に援助をお願いしたりなどで、お金の工面をしながら、普通のお葬式を行う方もいらっしゃいます。このような方には、どんな形であれ、精一杯お手伝いさせてもらいたいと思うものですが、今回は、その逆のお話です。

母親が亡くなりました。兄弟が、病院で看取り、我々に連絡をいただき、病院から斎場へ搬送を行い、それからお葬式の打ち合わせを行いました。別に生活保護を受けているわけでもないのでしょうが、話を聞くとそれほどお金にゆとりのある生活を行っているような状況ではないことがわかりました。「お金がないし、兄弟とその家族だけでお葬式を行うので、最低必要なものだけでお願いします。」ということでした。こちらは、「最低こんなものですよ。」と見積もりを出しました。金額には、少しだけびっくりしたようですが、生活保護世帯の埋葬費とほぼ同額で金額提示を行いましたので、まあ、なんとかします。ということでした。でも、このお葬式代を払うとお寺を呼ぶことは出来ないとのことで、お寺も呼ばすに出棺だけで済ませてしまいました。さて、一晩斎場に泊まり、翌日出棺して、火葬を行いました。出棺後に斎場に行くと、担当したものが、困った顔をしていました。どうしたんだろうと話を聞くと、昨晩は、お酒をたくさん飲まれたようで、缶ビールや日本酒の空瓶などがたくさん出ておりました。挙句の果てに斎場のガラスを割っている。「喧嘩でもしたのかなあ。」とボヤイていました。こんな事じゃ、お金のちゃんと払ってくれるかも心配なので、当分フォローしないといけなないなあと後のことも心配していました。

私は、確かに仕事をして、代金をもらえない心配もさることながら、お金がないので、お寺の呼ばないでお葬式をする。そして、その間にアルコールを大量に飲んでいる遺族の人に違和感を感じます。

「お酒を飲むお金があるのなら、もう少し何とかしたら、実の母親のことでしょう。」と思います。ちょうど担当と話をしていたところに、火葬を終えた遺族たちが斎場に戻ってきました。斎場に置いておいた荷物を受け取り、自宅に戻り、お骨を安置する後飾りを作るそうです。これは遺族の要望らしいが、お寺も呼ばず、母親のお骨をどうするつもりなのでしょう。なんだか本末転倒なお話です。こんな風に考える遺族の人たちは、自分たちは何もおかしいことをしていないと当たり前のような顔つきで担当者と話をしていました。なんだか怖い人たちに思えてきました。それとも、こんな風に感じる私がバカなのでしょうか。それとも、お酒を飲みすぎで、遺族の感覚はマヒしているのでしょうか。今夜は眠れないかもしれません。

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